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武蔵野航海記

武蔵野航海記

目付 2

私は国語辞典を二つ持っています。

一つは金田一京助編集の昭和33年発行の「明解国語辞典」で、私が買ったにしては古すぎるのでおそらく誰かから頂いたものでしょう。

もう一つは「大辞林」で1988年発行です。

私はこれらの辞典で「正社員」を調べてみましたが、どちらにも載っていませんでした。

つまり20年前には「正社員」という言葉はなかったのです。

バブル崩壊前の経済的に好調な日本では、「正社員」と「契約社員」、「フリーター」という区別はなく、「社員」のほかには「季節労働者」や「パート」というのがあっただけでした。

「季節労働者」や「パート」というのは、冬だけ働くとか昼の短い時間だけ働くといったように、労働時間が限定されている雇用形態です。

当時、一年を通して朝9時から夕方5時まで働く者は皆「社員」だったはずです。

ところが、バブルの崩壊で日本中が経済的に厳しくなるに伴って、「社員」が「正社員」と「契約社員」に分化してきたのです。

これは私にとってひさびさの大発見でした。

給与が違うとか社宅に安く住めるなどの福利厚生に差があるとかいう区別が両者にありますが、基本的な違いは「正社員」は労働組合員だが「契約社員」は組合員でないということです。

組合の役割は組合員の雇用を守ることですから、組合員である以上雇用は原則として終身雇用です。

会社との短期契約で雇用が不安定な「契約社員」が労働組合員であるというのは、論理的にありえないのです。

高度成長期の日本では終身雇用が企業にとって有利でしたから、会社は従業員を「社員」にして定着させようとしました。

ところがその後終身雇用のデメリットが明らかになるに連れて、会社と組合の幹部のあうんの呼吸で「契約社員」というのが出来てきたわけです。

会社としては、人員を調整でき人件費を下げることが出来ます。

組合としても従来の組合員の雇用は引き続き保証されるし、費用の安い契約社員を使うことで会社の業績がよくなりひいては自分たちの給与が上がるわけです。

このように「正社員」と「契約社員」の分化は、「同じ釜の飯を食う仲間」を限定することによって企業という運命共同体の危機を乗り越えようと考え出された方法です。

その結果、遅れて社会に入ってきた若い世代の一部が差別されて、大きな社会問題になってきたのです。

日本の労働組合は、「同じ釜の飯を食って共に働く仲間は一族だ」という日本人の伝統的な発想が基にあります。

それがヨーロッパから来た共産主義や労働運動を表の看板にしているだけです。

ですから共産主義理論に基づいているわけではなく、別に支配者に対する本当の脅威にはなっていませんでした。

ロシアで革命が起きた後、日本にもその影響が来るのではないかとおびえて、戦前の支配者が共産主義や労働組合を恐れたことは事実です。

しかし実際に取り締まっていた思想警察や軍隊の憲兵は、日本の共産主義の実態を理解していて全然恐れていなかったのです。

満州に満鉄という今の日本には存在していないような強大なコングロマリット(巨大企業連合)がありました。

元々は日露戦争に勝って、ロシアから鉄道の権益を譲り受けてスタートしたのですが、次第に周辺の流通・不動産・製造業などを手広く行う企業になって行ったのです。

純粋な民間企業ではなく巨大な公営事業体で、日本政府は大臣クラスを総裁に送り込んでいました。

その満鉄に調査部があったのですが、この「満鉄調査部」というのは非常に有名で、今の銀行の調査部門が独立した「シンクタンク」など足元にも及ばないようなシンクタンク兼情報機関でした。

その満鉄調査部で働いていた連中の大部分が左翼思想の持ち主だったのです。

左翼思想を持っていたために警察に検挙された連中の多くが、警察の説得で「転向」しました。

共産主義の思想を放棄したのです。

激しい拷問や脅迫をしなくても、思想警察との議論の過程で自分から転向して行った者が多かったのです。

彼らは社会的な矛盾を解決する方法として共産主義が良いと考えたのですが、ヨーロッパとは思想的な背景が違うので共産主義を理解していなかったのです。

ですから満鉄調査部という非常に影響力のある機関で働けることを喜んだのです。

戦後彼らの残党が日本に帰り、様々な政府機関で働き続けました。

戦後の日本の政策が左翼的なのはこういう事情もあります。

戦前の日本の思想警察は、左翼思想にかぶれた若者を「社会の矛盾をなんとか解決しようとする純真な若者だ」と思っていたのです。

一方、2・26事件を起こした若手将校なども、思想の傾向は違いましたが社会の矛盾を解決しようという純粋な青年たちでした。

思想警察から見たらどちらも大した違いはなかったのです。

戦後になって、共産党や社会党は「戦前、自分たちは激しく弾圧された」と云っていますが誇大宣伝もいいところです。

日本の労働組合は、企業ごとに結成されていて「同じ釜の飯を食う仲間」意識で成り立っています。

そして仲間内の利益だけを考え、よそ者のことは考えません。

ですから非組合員である契約社員がいつでも会社の都合で解雇される状態を放置しています。

そこには共産主義の「万国の労働者団結せよ」という理想はありません。

このような「正社員」と「契約社員」の差別が日本で公然と認められているのは、法律がヨーロッパ式だからです。

ヨーロッパやアメリカの労働者は全て「契約社員」で、日本の労働法も基本的には労働者は全て「契約社員」だという前提で作られています。

ですから企業の終身雇用というのは企業の恩恵で、労働者に特別に与えられたものであり、「契約社員」が法律に基づいて抗議できるわけではないのです。


このような日本の企業別の労働組合を母体にしているのが、社民党や社会党(今は看板を書き換えて民主党と称しています)です。

企業別労働組合が、「正社員」と「契約社員」の差別を維持し自分たちの有利な立場を守ろうとしていますので、社民党や民主党もそれに従っています。

今の日本の最大の問題の一つである「フリーター問題」「格差問題」に、これらの政党が正面から取り組もうとしないのもこのためだと私は思います。

NTTの民営化が大きな問題になった時、NTTは二人の社員を民主党議員として国会に送り込みNTTの特権的な地位を守ろうとしました。

これにはNTTの労組が最大級の協力をしました。

NTT本体及びその下請け群の労働者は大変な数ですから、NTT労組が強力な選挙運動をすれば国会議員の二人ぐらい作れるのです。

これがヨーロッパであれば、NTTで働く者もそのライバル企業で働く者も同じ「通信労働組合」に所属しています。

ですからその組合が特定の企業に味方をすることなどありえないのです。

また、現在失業中のものでもその産業で仕事をする意志のある者も労働組合員になっています。

ですから特定の企業が、仕事は同じなのに給与やその他の待遇が違う条件で失業者を雇用しようとしたら、その組合は猛烈に抗議し場合によってはストライキを起こします。

このように日本の労働組合とそれを選挙母体とする「革新的」な政党は、日本をより良い国にするための様々な動きを妨げる要因になりつつあり、極めて保守的な体質になっています。

今まで何回か横道にそれていましたが、次回からまた「目付」に関して私が思っていることを書きます。

マルクスの予言と異なり、なぜ最先進国で共産主義革命が起こらず、近代産業などないロシアや支那で共産主義革命と称するものが起きたのかを前回までに説明しました。

ロシアや支那は共産主義革命の前提となっている、独占的大企業が支配する社会ではありませんでした。

共産主義革命は圧倒的多数の労働者が起こすことになっていましたが、支那やロシアには労働者などほとんどいませんでした。

農民と個人経営の事業しかいなかったのです。

産業が発達していたイギリスにも勿論農業はありましたが、ロシアや支那のような農民はいませんでした。

イギリスの農業というのは、借地農が大地主から土地を借りて労働者を雇い大規模な農業を行うというのが一般的でした。

地主が資本家で借地農が経営者だったわけで、製造業や商業と同じく資本主義的なものだったのです。

イギリスにもかつては小作人がいて、先祖代々の土地を耕し地主に年貢を払っていたのですが、地主が所有地からもっと利益を上げるために、小作人を追い出し賃金労働者を雇って効率の良い経営をするようになったのです。

一方ロシアや支那では、農奴や小作人が狭い農地を耕し家族が食い年貢を払うための作物を作るだけで、市場に売りに出して稼ごうという資本主義的な農業ではありませんでした。

このようにロシアや支那では資本主義社会がまだ出来ていなかったのに、資本主義の次の段階の共産主義社会を作ろうとしたのです。

そこでロシア革命を起こした共産党は、ロシアをまず産業化しようとしました。

革命当初に農地も企業も国有化したのですが、今までそれを経営していた資本家や番頭を殺したり追放したりしたものですから、これらの組織が全然動かなくなってしまいました。

そこで革命後数年で「新経済政策」というのを始めました。

労働者を雇って農業を行う大農や会社の資本家を呼び戻して彼らに経営させようという政策です。

つまり共産党が指導的な立場にたってロシアを資本主義化しようとしたのです。

ロシアでは革命の数年後には資本家を優遇して資本主義を育てる政策を採りました。

そうすると国民の間の「格差」が目立ってきて、「革命の目的に反する」という抗議が強くなりました。

そこでロシアの共産党政府は政策を変更して、また資本家を殺したり追放したりして、産業の「集団化」を進めるようになりました。

農地は家族に耕していた狭い土地を纏めて、その広い土地を集団で耕すことになったのです。

これが「コルホーズ」というものです。

また都市では、資本家の持っていた小さな企業を接収して大きな国営企業をつくりました。

ロシアでは産業が育っていなかったので、この都会の大企業に膨大な資金をつぎ込みましたが、その金は農民から搾り取りました。

イギリスなど先進国では、地主が農業で稼いだ金を産業に投資しましたが、ロシアはそれと同じことを共産主義の政府がやったのです。

このとき金を作るために農民に重い年貢を納めさせ、その農産物を外国に売って外貨を稼いだのです。

とくにウクライナの農民の負担が大きく、800万人が餓死しました。

まさに飢餓輸出でした。

支那でも同じ事が起きました。

国民党を台湾に追い出した直後は、資本家にも活動を許していました。

しかし後に産業の集団化を行いました。ロシアの「コルホーズ」からヒントを得て「人民公社」を作りました。

そしてこの「人民公社」が製鉄などの産業を起こすように毛沢東は命令しました。

これが「大躍進」と呼ばれる政策で、これは大失敗し5000万人ぐらいが餓死しました。

このようにロシアでも支那でも、共産党が資本主義を育成するという、マルクスが考えても見なかったことが行われ、大失敗して経済的に苦境に陥るということになったのです。

ロシアでも支那でも産業を集団化し国営化しようとする政策が大失敗した結果、権力争いが政策論争の体裁の顔をして起きました。

スターリンが死んだあと、フルシチョフはスターリンの批判をしました。

支那では毛沢東が命令した「大躍進」が失敗した結果、彼を引きずりおろそうという一派が出てきました。

これに対して、毛沢東の起こした反撃が「文化大革命」です。

このようにロシアでも支那でも、共産主義の解釈を巡る理論闘争は実際は権力争いだったのです。

そもそも共産主義の基盤が出来ていないロシアや支那で共産主義の政策を実施することが無理なのですから、打ち出す政策は理論的には辻褄の合わないものでした。

マルクスは共産主義の社会では民族や人種の差別はなくなると言いました。

これらの差別は支配者が労働者を分裂させるために作り出した概念だというのです。

しかし実際のロシア人や支那人はそこまで文化のレベルが上がっておらず昔ながらの差別や排外的な気分を持ち続けています。

そこで支配者はこれらの民族感情を利用しました。

第二次世界大戦では、ソ連はこの戦争を「大祖国戦争」と称しました。

外敵からロシアを守る戦いだというのです。

そして共産党の御用映画監督であるエイゼンシュタインは、「アレクサンドル・ネフスキー」という映画を作り、それを共産党は盛んに宣伝しました。

はるか昔の中世にアレクサンドル・ネフスキーという大名がドイツ騎士団の侵入を撃退したという史実に基づいた映画です。

それをまさにドイツとソ連が戦っている最中に上映したのです。

またロシア人に敵対する民族を激しく弾圧しました。

ウクライナ人は伝統的にロシア人に対抗意識がありましたから、スターリンの時代にはひどい目にあいました。

過重な年貢のために800万人が餓死したことは以前に書きました。

現在のウズベキスタンという中央アジアの国には、朝鮮系が非常に多いのですが、これは満州近くにいた朝鮮人を、スターリンは日本と通じるのではないかと疑い、大量にウズベキスタンに強制移住させたのです。

それ以外にもチェチェンなど現在ロシアと紛争を起こしている国は皆スターリンに苛められた過去を持っています。

ソ連は、民族の差別を認めない共産主義に反して民族主義を煽りましたが、もっと変なのは階級を新しく作ったことです。

そもそも共産主義は出自による差別をなくすことが目的のはずですが、ソ連は労働者が一番高い階級であり、地主や資本家の出身者は社会の最下層に位置付けられました。

生まれによる差別を積極的に支持したわけで、マルクスの理想とは正反対のことをしたわけです。

ソ連と同じ事を共産党の支那も行いました。

貧農や労働者の出身が最高の階級なのです。

また民族的な差別を積極的に行いました。

共産主義は国家という枠を認めず、全ての人類は平等と考えるはずなのですが、漢民族優先の政策を採りました。

チベット、ウイグル、満州などは本来は支那とは別の国ですが、軍事力によって占領してしまい独立運動を弾圧しています。

チベットの独立派を多数殺していることは従来から世界中に知れ渡っていましたが、最近ブルガリアの写真家の目撃談が日本でもニュースになりました。

今頃になってニュースになるのが遅すぎるという感じです。

更に支那国内の「格差」による庶民の不満を外にそらすために、積極的に日本を「悪役」にする政策をとっています。

支那では国民党と共産党の内戦や毛沢東の「大躍進」の失敗によって数千万人が死んでいますが、これを全て日本軍のせいにしようとしています。

このようにソ連も支那も実際にやっていることは、看板に掲げている共産主義の理想と正反対なのです。

ロシアの共産党も支那の共産党も表看板である共産主義と実際にしていることが正反対でした。

その一方で、国家の幹部は全て共産党員であり、彼らは共産主義がいかなるものかを教え込みれました。

こうなるといかに詭弁を使おうとも、マルクスの教えと実際に共産党がしていることが違うということを党員は気が付きます。

そこで共産党は「プラウダ」や「人民日報」を媒体として、共産党のしていることがいかに本来の共産主義に合致しているかを宣伝します。

その結果、多くの党員は表看板の「本来の共産主義」と現実の共産党が詭弁を使って説明している「現政府の公式解釈」の二種類があることが分ってきます。

そして「現政府の公式解釈」に従っていれば身の安全が保てることが分ってきます。

ここで皆さんはもうお分かりになると思いますが、「政治委員」という名の「目付」の仕事は、軍隊の幹部なり政府の役人なりの思想が二種類のどっちかをチェックすることです。

自分の内心に忠実に「本来の共産主義」を実践しようとする者は、現政府の敵であり見つけ出して粛清するわけです。

何が正しいか迷っている者には「現政府の公式解釈」が正しいと説得することが仕事です。

ロシア共産党も支那共産党も、自分たちの行っていることが本来の共産主義とは全く違うと言うことを自覚していました。

だから共産主義に関する解釈が異なった時に皆の前でどちらが正しいか論争して相手を説得するという方法がとれないのです。

自分のしていることに対して思想的な確信がなく後ろめたいのです。

ですから「目付」を使って、その人間の思想をチェックするのです。

「監査」というのは現実に行われていることが法令に合致しているかをチェックすることです。

しかし「目付」がチェックするのは、その人物が「何を考えているか」であり、もっとはっきり云えば彼が現政府の敵か味方かをチェックするのです。

ロシアや支那の共産党の政治委員とは、政府組織や軍隊の幹部が政府の公式見解を認めているかあるいはそれに反抗しているかをチェックする目付だということを前回説明しました。

これは、共産党の実際に行っていることが表看板である共産主義とは正反対のことなので、共産党の支配者自体が後ろめたく思っているから、政府組織の幹部をこんな目付を置いて監視せざるを得なかったのです。

この視点から日本の江戸時代を見ると、何で徳川将軍の中央政府が附家老や目付を置いたのかがスラスラと分ってきます。

徳川幕府の思想的基盤があやふやで非常に頼りなかったのが原因です。

家康は関が原の戦いでライバルを破りました。

もしも支那人が同じように天下分け目の戦いで勝ったら、彼は皇帝を宣言するはずです。

支那の考えである儒教の思想に基づいて、天命が下った、即ち天は自分をこの世の支配者に任命したと宣言するわけです。

支那人の伝統的な思想の裏打ちがあり大多数の支那人は彼が皇帝であることを認めるので、彼の立場は正統性を持ち後ろめたさを感じず堂々としています。

一方、家康は日本の天皇になりませんでした。

日本には儒教の発想は全くといって良いほど浸透せず、天がこの世を道徳的にするために優れた人物を天皇にするという考え方がないからです。

日本には正義を行うために政府が存在し、それが正義に反したら取り替えなければならないという発想はありません。

社会や国家も自然物だという「あるべきようは」という発想なのです。

天皇家も自然物ですから、その存在を否定するのではなく、あるべき場所にいるのが正しいと考えるのです。

江戸時代初期の天皇が優れた人物ではなく、公家たちも日本を運営できるだけの能力などまるで無いことは皆が分っていました。

だから日本の実際の政治などはさせず、ただその存在を容認しただけです。

徳川将軍家は軍事力と政治的な能力によって実際に日本を支配するのが正しいと思われていました。

そこで天皇が日本の主権者で、徳川将軍は天皇から征夷大将軍に任じられるという形式を採ったわけです。

これで自然物としての天皇の存在と実際に日本を治める役割の徳川将軍家の両者の存在を両立することができます。

徳川将軍家は天皇から征夷大将軍に任命されました。

征夷大将軍は軍事の最高司令官ですから、およそ武士であるものは将軍に従わなければなりません。

徳川将軍はこれによって、諸大名への命令権が合法化されたわけです。

このことは逆に言えば、天皇が別の大名を征夷大将軍に任命すれば徳川家は諸大名への命令権を失うということです。

徳川将軍家の権力は非常に頼りない根拠しか持っていないのです。

もちろん徳川将軍家は、自分たちの正統性の根拠が非常に薄弱であることに気づいていました。

大大名が天皇家に工作し征夷大将軍の任命を勝ち取れば、徳川は賊軍になり一族は戦で敗北して全滅する可能性さえあるのです。

そこで徳川将軍家は様々な対策を建てました。

一つは徳川が天皇家になることです。

三代家光や五代綱吉は実質的に天皇として諸大名に臨んでいたフシがあります。

これは記録が消されているので実態がよく分りません。

ただ、朝鮮の李王朝の朝貢使である通信使が天皇家ではなく、将軍家に朝貢していた事実はあります。

これは対外的には将軍家が日本の最高支配者だと宣言しているということです。

朝鮮通信使は日本中をねり歩いて最後に江戸に到着しました。

外国の王が天皇家ではなく将軍家にご機嫌伺いに来たということを日本中に知らせていたのです。

外国の王が日本の支配者を主人と認めてやってくるわけですから、日本側は大歓迎したのですが、この費用が莫大でした。

新井白石など実務派はこの費用を削ろうとしたぐらいです。

徳川幕府の思想的基盤の頼りなさを補強するため、もう一つの手段として考え出されたのが儒教の導入です。

家来はその主君に忠誠を尽くさなければならないという考え方が徳川幕府に好都合だと考えられたのです。

徳川将軍は主君である天皇に忠誠を尽くし、徳川将軍の家来である諸大名は将軍に忠誠であることで日本の平和が維持できるというわけです。

これは一見徳川将軍に好都合に見えますが、色々落とし穴があって結局徳川幕府の墓穴を掘る役割を果たしました。

この儒教が日本的に大いに変形して、幕末には勤皇討幕の思想になったのです。

徳川幕府の導入した儒教は朱子学という儒教の中でも特殊なものでした。

支那が夷狄(野蛮人)に圧迫された頃に出来たもので、本来の儒教の本筋から外れ非常に視野の狭いものだったのです。

本来の儒教は文明の中心であるべき支那と未開な夷狄という差別の発想ががあまり大きくなく、それよりも人間の道徳を重視したものです。

付け加えておきますが、儒教の道徳は日本の道徳とまるで違います。

支那の道徳を体現した「聖人」は、日本的な基準からしたらまるで聖人ではありません。念のため。

それが、朱子学が出来た時は支那が夷狄に圧迫されていたために、支那人と野蛮人という差別が強いのです。

野蛮人はいかに力が強くても聖人ではなく、「正統」でないと考えるのです。

この「正統」か否かということに朱子学はものすごくうるさいのです。

この「正統」という考えを日本に当てはめれば、天皇こそが正統で、徳川将軍は夷狄で正統でないという解釈が出来てしまったのです。

この発想の親分が水戸藩主の水戸光圀でした。

彼は徳川御三家の一人で幕府を支える中心的人物であるべきなのに、幕府は天皇の権限を不当に簒奪しているとした男で、幕府から見たらとんでもない嫌な男でした。

実際、彼の言動を見てみると性格にバランスを欠いた異常者だったようです。

このように天皇が正統で幕府は夷狄だという考えが出てきたのは、徳川将軍が天皇の如く振舞ったことの反動という面があるようです。

参勤交代で大名に金を使わせて財政的に戦争ができないようにする方法も徳川幕府が諸大名を統制する方法として考え出されました。

これは大名の妻子を江戸に住まわせて人質にするという効果もありました。

徳川将軍にとって一番危険な大名は、島津や毛利など関が原で敵方に廻った大大名でした。

関が原の合戦後、様々な理由でこの二つの大名家を取り潰せなかったので、徳川幕府は封じ込め策を考え出しました。

薩摩の隣の肥後には細川という外様大名ではありましたが、関が原では徳川に味方した大名を置き、薩摩を監視させました。

熊本城は島津を防ぐための要塞ですが、素晴らしいお城です。

余談ですが、島津の方も熊本城を目の敵にしていて、明治10年の西南戦争では西郷隆盛の薩摩軍はまっさきに熊本城を攻撃しました。

さらに島津や毛利に対しては博多の黒田、安芸の浅野、備前の池田、近江の井伊などの大名に監視させました。

姫路城や大阪城は彼らの大軍を防ぐために維持されました。

島津や毛利は懐柔できる相手ではないので、力で抑えるしかなかったのです。

島津や毛利の次に危険な大名は、徳川の分家である御三家と前田家です。

戦国時代から江戸時代初期には大名家の相続法が確立しておらず、必ずしも長男が跡を継ぐとは限りませんでした。

三代将軍家光は長男でしたが、彼の将軍職相続はかなりもめたのです。

彼の弟を将軍にしようとする勢力があり、彼らを押さえつけて家光を将軍にしたのが乳母である春日の局です。

世の中が治まってきた家光の時代ですら、長子相続が確立していなかったのです。

ですから有力な分家は危険なライバルです。

前田家は、分家も合わせると120万石という最大の大名で徳川のライバルになる資格は十分あります。

前田家は関が原の合戦では徳川に味方したので。島津や毛利の様に露骨な封じ込め策を取れません。

このような理由から徳川御三家や前田家に対しては附家老という目付をつけて統制しようとしたわけです。

徳川御三家や加賀前田家につけた附家老の役割というのは、大名の当主や家老たちの思想を矯正して徳川将軍の忠実な家来にすることだったと私は思います。

前に書きましたように、附家老は江戸の将軍にいつでもお目見えする資格があります。

普通の家老は江戸の将軍からみたら股者(家来の家来)で、将軍に会えないのです。

附家老はその気になればいつでも将軍に会えますから、御三家や前田家の当主からしたら、何を将軍に言うか分らない非常に恐ろしい存在です。

大名の当主が附家老を煙たがって会わなかったり、藩内の機密を隠したりしたらそれだけで将軍の疑いを招くことになります。

結局、附家老は藩内の事情を全て把握することになり、また大名の当主がどういう人物かも良く分るようになります。

大名の当主がすこしでも徳川将軍に反抗的な人物であったら、その情報が附家老を通じて将軍の耳に入り、その大名は取り潰されるか首がすげ替えられます。

附家老はこのように将軍の力を背景にして、大名家の当主の思想をチェックし矯正したのです。

徳川将軍が一番恐れたのは、御三家や前田家など有力大名が天皇と結びつき、征夷大将軍になって歯向かってくることです。

これが徳川将軍の一番の思想的弱点なのです。

だから附家老は大名家の学問にも目を光らせていました。

幕府の御用学問である朱子学は、天皇 →徳川将軍 →諸大名 という系列を守らせようという偽儒教で、これに反する学問を認めなかったのです。

このように附家老を使って徳川将軍は、幕府の権威のあやふやさをカバーしようとしたわけです。

明治になると政府に目付に相当する役職はなくなりました。

明治政府は欧米諸国に近代国家として認められることを最大の目標としていましたから、国家組織も欧米の真似をしました。

ですから欧米に無い目付という制度が出来なかったのも当然です。

また目付というものがもはや必要なくなったという事情もあると思います。

江戸時代と違って天皇と将軍という二重構造が解消されて、権威の曖昧さがなくなりました。

また日本の独立維持という目標で日本人が纏まっていて、政府の公式見解と実際の政治のブレもあまりなかったのです。

昭和に入ってから軍部と一般の日本人の間に意識のズレが生じましたが、軍部の支配は短期間で終わったので目付という制度は確立しませんでした。

戦後は「民主憲法」により「思想の自由」が尊重された結果、目付などという役職が政府に出来るはずもありません。

しかし目付の伝統は根強く、私企業では目付が復活しています。

日本の企業を訪問した時、会議に出席する日本側のメンバーの多さに始めは驚きました。

一つの案件の担当部門をはっきり決めないのです。

担当部門ができたとしても「一応」です。

その結果、部長が三人も出席するということになります。

私はこれは目付だと理解しています。

ということは、日本の企業は、自分たちのしていることが後ろめたいと感じているという意味でもあります。

目付とは自分たちのしていることの正当性に自信がないときに出来る物だからです。

日本の法律など表立った制度には、自分の身内の利益を優先せよなどというものはありません。

「平等」というのは日本人が非常に好きな言葉です。

身びいきや内部での隠蔽をなんとか無くそうと「内部告発」を奨励する動きもあります。

しかし「同じ釜の飯を食い共に働く仲間は一族だ」という発想は長い伝統の中で日本人の心に染み込んでいます。

一旦運命共同体のメンバーになったら、自分の所属する共同体の利益を最優先しなければそこから排除されてしまいます。

同じ人間が一般市民として振舞う時と、企業など運命共同体のメンバーとして振舞う時とでは、従うべきルールが異なるのです。

運命共同体の本音である「自分たちの利益は他を犠牲にしても守らなくてはならない」というルールは表に出せません。

うしろめたいわけです。

そこでメンバーがお互いに監視しあってこの本等のルールを仲間が破らないようにするわけです。

日本企業の社員とよそ者である私が交渉をする際に、私は世間的に妥当なルールに従って自説を展開します。

日本企業の社員が私の言うことに納得し承諾すると、共同体の利益に反する場合があります。

ですから部長が三人出席してお互いの目付を勤め、本当のルールに忠実か否かその考え方をチェックするわけです。

日本人が互いに目付になることにより、一定の効果があることは事実です。

日露戦争の時、ロシア軍に捕虜になった日本兵は日本軍の内情を正直に話してしまうことが多かったのです。

捕虜は自軍の内容を敵に話す義務はありません。

ロシア軍も捕虜の日本兵を拷問して情報を話させるということはしませんでした。

日本兵が自分から自軍の内情を話したわけで、これによって日本軍は何度か非常なピンチに陥りました。

第二次世界大戦でも同じことが起きました。

最初は米軍も日本兵捕虜の話の内容を信用しませんでしたが、その内容が事実であることが多く、これにより米軍は大きな利益を得ました。

この日本兵の捕虜が自発的に自軍の内情をしゃべるというのは国際的に有名な事実なのです。

日露戦争の苦い経験から、日本軍は捕虜になるよりは自決すべしと指導するようになりました。

日本には捕虜になるより死を選ぶという文化的伝統はありません。

どこの国でも捕虜になるよりは死を選ぶというプライドの高い人はいます。

しかし、末端の兵隊まで自決を薦めるということはありません。

戦国時代の日本でもそういうことはありませんでした。

昭和になって、内情を敵にしゃべるという日本兵の悪癖に困った軍部は、「葉隠れ」を引用して自決が古来の日本の伝統だとウソをついただけです。

アメリカを相手に大戦争をしようとする軍部が、こういう対策を考えたのも致し方がなかったと思います。

実は私も似たような経験があります。

仕事で何度か顔を合わし親しくなった日本企業の従業員が、自分から自社に不利なことを話すということがあったのです。

日本人が互いに目付になるというのは、これを防ぐ効果があります。

前回、日本兵で捕虜になったもののなかには、自軍の内情を敵に話してしまう者がいると書きましたが、もちろんそんなことを敵に話さない人もいました。

小野田寛郎少尉は、日本の敗戦後29年間戦い続けてきました。

彼の投降はまさに「式典」でした。

彼は投降の象徴として自分の軍刀を敵将に渡しましたが、その渡した相手はフィリピンの大統領でした。

大統領宮殿で大勢の見守る中で「投降」したのです。

世界中の将軍たちは彼こそ軍人の鑑だと賞賛し、各国の勲章が降るように彼に与えられました。

世界中の人間の考え方がこのようなものだということを、日本人はしっかりと分からなければならないと思います。

彼はラジオを聴いていましたから日本が降伏したこと、東京オリンピックが行われたことをフィリピンの山の中で知りました。

敗走する日本軍では様々なデマが流布されたので、彼は正式な命令があるまでは日本が降伏したことを信用しなかったのです。

小野田少尉がいる山に日本人が投降するようにビラを撒いても出てこなかったのはこのためです。

そこで最後に彼の上官だった人が小野田少尉に会い投降を命令したのです。

このように自分を日本軍の一員と位置付け続けたひとがいました。

その一方、脱走兵もいました。

横井庄一伍長は脱走兵で、通常の国であれば死刑にされたかもしれません。

小野田少尉と同じ頃グアム島から出てきて、耐乏生活評論家になりました。

何故か日本のマスコミや本では彼を脱走兵と書いていません。

日本兵にもピンからキリまであったのです。

前回脱走兵のことを書いたところ、脱走兵に同情を示すコメントがありました。

私は脱走兵に対して特に個人的な感情はもっていません。どこの国でもいつの時代でも脱走兵というものは居るものだからです。

捕虜になった日本兵の全てが敵に軍の機密情報を話したわけではなく、特定の性格を持った者が話しました。

同じ日本的思考法を身に付けた兵隊でも、その性格によって行動が異なることを言うために「日本兵にもピンからキりまであった」と書いたわけです。

戦争というのは生物としての人間の本能と合いません。

動物は縄張りやメスを得るために争いますが、それは自分の性欲や食欲を満足させるためです。

別に自分の命を懸けて争うわけではないので、自分が不利になればさっさと逃げます。

一方戦争は、本質的には個人的な利益のためにするのではなく国家の利益のためにやります。

戦争に勝って国家が繁栄しても、その前に自分が戦死してしまいその利益を享受できない可能性が高いのです。

戦争とはそれぞれの国家が正義を表に立てて行われるものです。

ですからまともな国家は、その戦争が自国の正義に合致するか否か検討をしてから戦争を始めます。自国の正義に合致しない戦争は軍隊がまともに戦わず負けてしまうからです。

この正義というものだけでは戦意が十分でないので、立派に戦えば立身出世させるぞという餌がぶら下げられ、敵前逃亡は死刑をもって禁じられます。

しかし実際に敵が目の前にいて鉄砲や大砲を撃ってくるという状況では、立身出世もへったくれもありません。

自分の身を守るという生物としての恐怖心と義務感・プライドが葛藤します。

ですから古来から戦士階級は、生物的な感情を抑えるために情操教育や教養を重視します。


日本の武士やヨーロッパのナイトがそうですし、世界中の士官学校でもそうです。

日本の海軍兵学校では、一時ヴァイオリンを習わせたこともあったそうです。

このように戦争というのは、個人的なレベルでも国家組織という面でも非常に思想的なものです。

こういう意味で全ての男は本来兵士に向いていないのです。

だから兵士というものを個人的な資質として合っているとか合っていないという議論はナンセンスと考えます。

国家・組織と個人の関係と捉えるべきだと私は考えています。

兵士個人個人が組織としての国家とどういう関係にあるかを考えるべきだと思うのです。

日本人は諜報活動が不得意で、機密情報を取れない結果外交が非常に弱いのです。

戦前にゾルゲ事件というのがありました。

リヒアルト・ゾルゲはドイツ人の父親とロシア人の母親の間の子供でしたが、共産主義を信奉し、ソ連のスパイとなりました。

ドイツの新聞記者として日本に来ましたが、当時のドイツは日本の同盟国でした。

ゾルゲは敏腕なスパイで、朝日新聞の記者だった尾崎秀実と元老西園寺公望の孫を協力者にしましたが、首相だった近衛秀麿のブレインでした。

また熱烈なナチス党員という触れ込みで駐日ドイツ大使の信頼を得ました。

こうして日本とドイツの軍事機密を探り出してはソ連に報告していました。

当時、ドイツとソ連はすでに戦っていて、日本もアメリカと開戦寸前でした。

ソ連の最大の関心事は、日本軍の矛先がソ連へ向かうのか、南方へ向かうのかということでした。

日米開戦の直前に開かれた御前会議で、日本軍は南方のイギリスやフランスの植民地及びアメリカへ侵攻することが決まりました。

この情報を得たゾルゲはそれを直ちにソ連本国へ伝えました。

その結果、ソ連は日本軍の攻撃に対処するためにソ満国境に配備した兵力をヨーロッパ方面へ移動させ、モスクワ前面の攻防戦でドイツ軍を押し返すことに成功しました。

ゾルゲは「日本人は親しくなると、平気で内部の機密情報を外部に漏らす」と驚いていますが、日本人のこの性癖は外国人の間では常識です。

国家がパワーゲームをするには優秀な諜報機関が必要ですが、19世紀に世界を支配したイギリスにはM6という諜報機関がありました。

第二次世界大戦後にアメリカが世界支配をイギリスから受け継ぐのに際して、M6の運営の仕方を学んで作り上げたのがCIAです。

イスラエルもモサドという諜報機関を作り上げました。

一方、日本の諜報機関はあるのかないのか分からないような状態です。

これは日本の諜報機関がその道のプロに相手にされていないからです。

プロ同士でお互いに相手の必要とする情報を交換することがありますが、このサークルの中に日本は入れてもらえないのです。

辛抱強く莫大な金を使って諜報網を作り上げるのですが、その情報を不用意に外部に漏らしたらそのルートは一瞬で壊滅します。

日本人には危なくて情報を渡せないのです。

日本の組織の内部情報が外部にすぐ漏れてしまいますが、この原因を私なりに考えてみました。

理由は二つありそうですが、組織を機能的なものと考えないという点ではどちらも共通していると思います。

1つは仲間意識です。

「同じ釜の飯を食い共に働く仲間は一族だ」という考えが日本人の根底に横たわっています。

これは二千年も続いている発想で日本人の心に染み付いています。

血縁関係にあることが一族の条件ではなく、これは養子制度を通じて脈々と流れ続けています。

また、企業が「一家」を成していることからもお分かりと思います。

同じ目的を持って接し、することも同じだと仲間になってしまうのです。

ソ連のスパイであったゾルゲは、熱烈なナチス党員だという触れ込みで日本に来て軍人や政治家と接触しました。

当時日本とドイツは同盟国で、共にアメリカと戦おうという仲間でした。

日本の軍人や政治家から見ると、熱烈なナチス党員であるゾルゲは立派に自分たちの仲間なのです。

こうなると一方は日本という国家の幹部で、片方はドイツの新聞記者だという表面上所属する組織の違いなど重大なことではなくなってしまうのです。

日本以外の国でも同じ目的を持つ者どうしは親しみを持ちますが、一方でどの組織に所属しているかということも重要です。

日本と違い、組織とは共通の目的を持った者が集まって作る機能的なものであり、その組織に所属する者は組織の目的を受け入れています。

ですからドイツ人やアメリカ人は、日本は日本人が共通の目的を持って作った組織であり、アメリカ人やドイツ人は日本人とは違った目的を持っていると考えます。

ですから同じ仲間とは言えないのです。

日本人にとっては組織とは目に見える表面的なものですが、それと同時に「共に働く」という感情を共有する仲間でもあるのです。

捕虜になった日本兵など、周囲に日本人がいなくて違う世界に孤立しているときに内部機密を話してしまうというのは、仲間意識とは別の理由だと思います。

日本人は全て存在するものは自然物だと考えていますが、その中には社会や国家も自然現象として混在しています。

自分も自然物で、大きな自然の中に自分もうまく収まり、「あるべきところ」にいるのが正しいと考えています。

この発想を私は「あるべきようは」と名付け、日本人の根底にある考え方だと理解しています。

儒教や西洋の民主主義といった考え方も日本に入ると、この「あるべきようは」の一部となります。

江戸時代は、儒教の言葉を使って「あるべきようは」を説明していましたが、明治になるといままでのものを捨て去り、西洋式の言葉を使った「あるべきようは」に乗り換えました。

戦後は再転してアメリカ式の言葉を使った「あるべきようは」になりました。

もちろんこれらの発想は、本場の儒教や民主主義とは別物です。

日本兵が捕虜になるまでは、馴染んだ「あるべきようは」に浸りきっていました。

日本という大きな組織の中に、自然物としての帝国陸軍があり、その中の一部として自分がいて、その秩序の中で周囲の日本人と一定の関係を保っていました。

ところが彼が捕虜になると、今まで慣れ親しんできた世界が消滅し、まるで違う世界が彼を取り囲んでいます。

こうなると彼は自分の居場所を必死になって探り、ついに新しい外部環境の中に自分の居場所を見出します。

アメリカ軍という自然物のなかで、命を奪われることなく寝場所と食事が与えられます。

こうなるとアメリカ軍という自然物は、彼に敵対するものではなく彼を包み込むものです。

そうして彼の方も積極的にその中であるべき場所を占めようとし始めます。

このようにして、自分の居場所でできることは日本軍の機密情報を話すことだと考えるようになるのです。

実際、多くの捕虜になった日本兵は、アメリカ軍の偵察機に乗り込み空から日本軍の配置をアメリカの情報将校に教えたのです。

日本兵の中でも生真面目で自分の役割を積極的に果たそうという者が、軍の機密を話したのです。

この例では、捕虜となった個人が従来の大きな自然から新しい自然であるアメリカ軍の秩序に乗り換えました。

同じことが集団でも起こりました。

戦争中は「鬼畜米英」と読んでいたアメリカが日本を占領すると、アメリカ軍を新しい自然物として認め、積極的にその中で「あるべき場所」を探しました。

そうして「民主主義」が人類普遍の価値であり、従来の価値観は「封建的」として全て捨て去ったのです。

今まで目付のことを書いてきましたが、これは極めて日本的な役目だということが言えます。

日本人には「誰がなんと言おうとこれが正しい」と頑張る正義というものがありません。

正義というものは頭で考えて出てくるものではなく宗教的な感情です。

天や神といった超越的な存在を信じている者たちだけが持てる感情です。

人権が正義だという信念を持てるのも、キリスト教の神が人間に与えた権利であり、その神を恐れ信じているからです。

ですからキリスト教の神とは無縁の者が、自分の命より自由などの人権の方が大切だと思えるわけがないのです。

古代のローマ人にも確固とした正義はありませんでしたが、その代わりにローマ法がありました。

ローマ人はギリシャ文化を尊敬し、「哲学」というものを受け継ぎました。

ギリシャ人は各ポリスが独立し、それぞれが独自の慣習や法を持っていてまとまりがありませんでした。

そこでこの状態を嘆いたギリシャ人が、全てのギリシャ人に共通する価値観を模索して哲学を作り上げていったのです。

ギリシャ人から哲学を教わったローマ人は、この哲学で広大な版図を統一して運営しようと考えたのです。

ギリシャ哲学を応用して、ローマの版図の中に住む全ての民族や運命共同体に共通する価値観を作り上げましたが、これがローマ法です。

ローマ法は哲学を基にして作り上げた価値観で宗教を基礎としていません。

ところが哲学というものは1つの前提に基づいて組み立てられるものです。

ある哲学は全ての物の根底にあるものを数だと考えましたが、別の哲学者は万物の基は水などの元素だと考えました。

そしてローマ法の基となった哲学をたどっていくと、「イデー」というあの世の理想的な世界を支配している正義にたどり着きます。

つまりローマ法の基も、あの世の神の正義を前提にした宗教的な感情なのです。

キリスト教の神ヤハウェやイスラム教の神アラーは、無神論者から見ると不合理極まるものです。

一方、ギリシャ人が考え出したイデーの神というのは、頭で考え出した神であるだけにヤハウェの神のように泥臭くなくスマートです。

このスマートな分だけ、様々な民族の教養ある支配者に受け入れられていたのです。

結局のところ正義というのは神の権威から来るのです。

日本の宗教はやはり神道でしょう。

岸和田のだんじり(わざわざ見に行ったことがあります)など、神社のお祭りの時の熱狂振りを見るとやはり日本は神道だなと思わざるをえません。

仏教の行事には人気がありませんね。

お墓参りなどという習慣は江戸時代後半に出来た習慣で、それ以前にはありませんでした。

また先祖の墓にお参りするなどというのは断じて仏教の教義とは無関係で、むしろ神道の習慣が起源でしょう。

この神道の根本的な教理を追求して表面の薄皮をはがしていくと、ついにはラッキョウの様に何も無くなってしまいます。

現在の神道の教理は、室町時代や江戸時代に作られ、明治になって大幅に変更されたものです。

その教理は全て仏教、儒教やキリスト教から借りてきたもので日本人の本来の信仰が結晶したものではありません(明治の国家神道のモデルはキリスト教です)。

民族の正義というものは、その民族の宗教の結晶から来るのが普通です。

支那人の正義は道教や儒教に由来しているし、西洋人の正義はキリスト教とギリシャ・ローマの宗教(哲学)から来ています。

日本人の宗教である神道が体系化し正義を結晶させる前に、仏教と儒教が入ってきました。

仏教や儒教はその時点で高度に体系化されていましたから、泥臭い神道は対抗できませんでした。

そこで急いで仏教や儒教の教理を借用したわけです。

このようにして日本の宗教の結晶である正義が出来なかったのです。


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